「光文事件」大正から変わるときに起きた元号誤報の真相や原因とは?

雑学

もうすぐ平成も終わり新しい元号に変わりますが、皆さんは1926年に起きた「光文事件」はご存知でしょうか?

これは1926年12月25日午前1時25分に大正天皇が崩御された際、その僅か数時間後に宮内省の正式発表を待たずに

当時の毎日新聞である東京日日新聞が号外で次の元号が「光文」であると報道しました。

これが本当であれば大きなスクープだったのですが、結果的大正の次の元号は我々が良く知る「昭和」でした。

いわば誤報であったわけなのですが、今回はそんな「光文事件」について書いていきたいと思います。

光文事件の裏側にあったものとは?

1926年12月15に大正天皇が崩御後、東京日日新聞は号外にて独自スクープとして次の元号が「光文」と発表します。

これは結果的に誤報であったわけですが、当時の東京日日新聞内はこの誤報によって責任をどう取るべきかという事態まで発展しました。

最初は当時の社長が責任を取って辞意を取ることを表明しますが、最終的には編集局主幹の方が辞任をすることで事態を収めることが出来ました。

さてトップの責任問題まで紛糾した「光文事件」ですがその原因は何だったのでしょうか?

よく言われている説がスクープによる差し替えです。

これは正式な発表を待たずに新元号を発表されたことで急遽国側が用意していた元号ではなく別の元号に変えたことです。

確かに正式発表する前にスクープされたことで変えるということも考えられなくはないですが、この説の可能性は低いと思います。

ここで確認したのが東京日日新聞が報じた「光文」ですが実は元々新しい元号候補の中にありました。

当時の内閣が候補に絞った新元号の案である「内閣勘進案」にて候補である5つの中に「光文」が入っています。

ただし注意してほしいのはこれは内閣勘定案によるものです。

内閣とは別に宮内省でも新元号の候補の選定を進めていました。

当時の宮内省での勘進案では、第一案から第三案までありましたが、実は「光文」という文字はありませんでした。

逆に「昭和」は全ての案で候補に入っています。

これら案が出た後、調整の結果、最終案である最終撰定案では最終候補を「昭和」とし、「元化」「同和」を参考として残っています。

このことから見て、東京日日新聞が報じた「光文」は何らかの形で内閣案が東京日日新聞の記者に漏れたのが原因だったのかも知れません。

この「光文事件」には続きがあり、それは平成の元号を発表されたときです。

「光文」事件の経験から毎日新聞は新元号をどこよりも一早く報道することを熱意を持っていました。

その熱意は実り、1版差ではありましたが新聞社で唯一夕刊3版で平成が新元号であると報道できました。

まさに「光文事件」のリベンジを達成出来た瞬間でした。

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