クーデンホーフ光子ヨーロッパの母と呼ばれたその生涯や夫とは?

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日本人がまだ海外で住むのが珍しかった明治時代にヨーロッパに嫁いだ女性を皆さんはご存知でしょうか?

その名はクーデンホーフ光子さんといいヨーロッパでは「ヨーロッパの母」とも呼ばれる人物です。

今回はヨーロッパへと渡ったクーデンホーフ光子さんの生涯について紹介します。

クーデンホーフ光子の生涯

クーデンホーフ光子さんは結婚される前は青山みつさんという名前でした。

光子さんは1874年に骨董品屋の娘として生まれます。

そんな彼女がヨーロッパと縁を持つようになったのは1892年、その出会いは偶然的なものでした。

オーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使であったハインリヒ・クーデンホーフ伯爵が馬で移動しながら街を見ているとき、ハインリヒ伯爵が骨董品屋の前で落馬をしたそうです。

それを発見した光子さんがハインリヒ伯爵を介抱しました。この介抱した男性こそが後の旦那さんになる方でした。

二人はそれがきっかけで仲が深まり恋愛関係となり結婚しますが、当時は外国人と結婚するなどあり得ないとされており、父親を始め周囲から猛反対にあったそうです。

それでも結婚することを選んだ二人は、東京で新婚生活を送り、そこで二人の子供を授かりました。

しかしハインリヒ伯爵は海外の人間であり、いずれ母国へ帰らなければなりませんでした。

1896年、ハインリヒ伯爵に帰国命令が言い渡されます。妻であった光子さんは悩んだ末夫に付いていくことを決断し、日本を離れます。

これ以降光子さんが日本の地を踏むことはありませんでした。

ヨーロッパに渡ってから更に5人のお子さんが生まれ計7人のお子さんにも恵まれますが様々な問題が彼女を悩ませました。

当時夫であったハインリヒ伯爵は子供達をヨーロッパ人として成長させるため、一緒に連れてきていた日本人の乳母を帰国させてしまい更に光子さんに日本語を話すことを禁じたそうです・

これにより光子さんは一時期ホームシックに陥ってしまったそうです。ハインリヒ伯爵は日本への里帰りも企画しますが長期間子供達と母親を離れ離れにするのは難しく、里帰りが実現することはありませんでした。

また光子さんは当時の初等教育機関である尋常小学校までしか卒業しておらず、一方でハインリヒ伯爵は多数の言語を操るなど教養のある人物でした。

自らの教養の無さに悩んだ光子さんは家庭教師を付け必死に語学や歴史、数学など様々な学問や作法など学んだそうです。

必死に勉強する姿は子供達に強い印象を残したそうです。

一方で光子さんは日露戦争が勃発したころ肺結核に掛かり南チロルで一家で移住し闘病生活を送ります。

幸いにも病状は回復し、かつて住んでいたボヘミアのロンスペルク城に戻りますが1906年、光子さんに悲劇が襲います。

夫であるハインリヒ伯爵が亡くなられたからです。夫の死に悲しむ光子さんでしたがそんな暇もなく新たな問題が襲い掛かります。

ハインリヒ伯爵の遺書では光子さんに全ての財産を相続させると記載されていたのですがハインリヒ伯爵の一族が財産の譲渡をミツコさんに要求してきたのです。

一族は財産の譲渡で裁判を起こしますが光子さんはこの苦境にも負けず裁判は光子さんの勝利に終わります。

その後子育てのためにウィーンに移住し、子育てを行う傍らで伯爵夫人としてウィーンの社交界にも進出します。

その当時は日露戦争で日本が勝ち、日本の国際的立場上がっており、日本人であった光子さんも社交界から注目されるようになります。

その後1914年に第一次世界大戦が始まりオーストリア=ハンガリー帝国と日本は敵対関係となり、光子さんも厳しい目で見られます。

第一次世界大戦が終わると次男のリヒャルトさんが舞台女優との結婚を伝えると光子さんはそれに反対し、リヒャルトさんは駆け落ちしてしまいます。

このリヒャルトさんは後に汎ヨーロッパ主義を提唱し、後のEU構想に繋がっていき、リヒャルトさんは欧州連合創立の父として語り継がれています。

そのため光子さんは「ヨーロッパの母」と呼ばれることもあります。

そんな光子さんは1941年8月27日、67歳でお亡くなりになりました。

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